大阪狭山市の歴史
移り変わり進化するまち
古代~狭山池の誕生~
旧石器時代から人々の生活が営まれ、古墳時代に須恵器の生産がはじまります。飛鳥時代には狭山池が築造されました。
古墳時代
古来、狭山の地は陶器のルーツ
市域周辺は、「陶邑(すえむら)」の東端に位置し、須恵器の日本一の生産地でした。一帯は、須恵器を焼く窯をつくるのに適した地形であり、須恵器づくりに必要な土や水、薪などが手に入りやすかったことが理由です。市内では100基の窯跡が見つかっています。
飛鳥時代
日本最古のダム形式のため池といわれる「狭山池」が誕生
農業に必要な水を確保するため、川をせき止める堤を築き、狭山池を築造しました。平成の改修で見つかった下層東樋に使用されていた木材の年輪年代法による年代測定によって、狭山池は、616年ごろに築造されたことがわかりました。堤に用いられた枝葉と土を交互に積む「敷葉工法」は当時の最先端技術と言われています。
奈良時代
行基により狭山池院が建立、狭山池も改修
731年に、僧行基が狭山池を改修し、池のほとりに狭山池院と尼院を建立します。762年には、延べ8万3千人を動員する大規模な天平宝字の改修が行われ、貯水量は築造当初の約2倍に。現在の狭山池の原形がつくられたのはこの時期だと言われています。
中世~重源による狭山池改修~
平安時代に入ると、多くの高野山参詣者が行き交いました。風光明媚な狭山池は、清少納言の「枕草子」にも登場しました。
平安時代
西高野街道・天野街道の原形が登場
弘法大師空海が開いた真言密教の聖地を訪れる高野詣でが大流行。堺から高野山をつなぐ道は西高野街道、女人高野として知られる天野山金剛寺へと通じる道は天野街道と呼ばれ、その分岐点であった狭山池周辺は人の往来が多かったと考えられます。この2つの道は、現在でも堺市との境界になっています。
高野街道周辺に池尻城・半田城が築かれる
平安後期、市域に興福寺領の荘園、狭山荘が成立しました。狭山池の北側の下高野街道沿いには池尻城、狭山神社周辺の中高野街道沿いには半田城があったと伝えられています。やがて荘園は解体されますが、池尻、半田などの村落は、現在の地区のもとになっています。
鎌倉時代
人々の要請により重源が狭山池を改修
強力な指導力を持った僧、重源が1202年に狭山池の修復を行いました。あらゆる階層の人々が資材運搬や築堤に協力した様子が、平成の改修で見つかった石碑に刻まれています。また、重源は古代の古墳の石棺を用いて石の樋管をつくりました。大きく丈夫な石棺は慶長の改修で護岸補強の石材として再利用されました。
近世~北条氏による狭山藩の時代~
街道の整備や新田開発が進められ、現在の市を構成する村も誕生。
狭山池では歴史上最大規模の改修が行われました。
江戸時代
明治維新まで12代続く狭山藩が誕生
関東地方に一大勢力を誇った戦国大名、伊勢宗端(北条早雲)の子孫が1616年に狭山池の北東の、池尻村に陣屋を築き、狭山藩北条氏が誕生しました。初代北条氏盛が大名に返り咲き、陣屋構築に着手した2代目氏信以降、この狭山陣屋を本拠として、狭山藩は250年もの長きにわたり続きました。その石高は約1万1千石ありました。
身分を問わず高野詣でが流行
平安時代からはじまった高野山参詣は庶民にも広がり、市域を通る「西・中・下」の3つの高野街道を、京・大阪・堺をはじめ、多くの人が行き交いました。街道沿いには、行き先や距離を示す道標や地蔵、石灯籠などが建立され、それらの多くが今に残っています。
豊臣秀頼の命により狭山池を大規模改修
豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が、1608年に大震災などの災害によって荒廃した狭山池をよみがえらせる慶長の改修を行いました。この改修では新たに東樋・中樋・西樋が伏せられ、東除が整備され、池の面積は最大となりました。現在の大阪市の田辺や平野あたりまでを潤したと言われています。
近代~狭山村・三都村の誕生~
幕藩体制の終焉、そして明治維新。国も地方も大きく変わり、近代化へと踏み出しました。狭山池には近代的なコンクリート造の取水塔が完成します
明治・大正
新時代の幕開け、大きく変わった地方制度
1869(明治2)年、狭山藩第12代藩主であった北条氏恭は、他藩に先駆けて版籍奉還と廃藩を新政府に願い出て、廃藩となります。狭山藩領の池尻村をはじめとする9つの村は、堺県、大阪府への編入を経て、1889(明治22)年に狭山藩と三都村という2つの村に再編成されます。1931(昭和6)年に2村が合併し新たな狭山村になりました。
近代化に大きな役割を果たした高野鉄道の開通
1898(明治31)年に狭山駅と大小路駅(現在の堺東駅)間で高野鉄道(現南海高野線)が開通し、長野駅(現在の河内長野駅)、道頓堀駅(現在の汐見橋駅)まで延び、大阪市中心部と交通機関で結ばれました。後に、狭山ニュータウンなどの大規模な宅地開発のきっかけにもなり、鉄道の開通は大阪狭山市の都市化に大きな影響をもたらしました。
現代~市制施行、平成の改修へ~
大阪狭山市は、大阪都市圏の衛星都市として発展しました。狭山池は日本の歴史上重要な歴史遺産として2015(平成27)年3月、国史跡に指定され、市のシンボルとして親しまれています。
昭和
終戦から復興ヘ、町制施行
1951(昭和26)年、町制施行により狭山村は狭山町になりました。戦時中はイモ畑になっていた狭山池遊園(敷地に大阪競争場狭山競艇場が完成。競艇場は約3年後に廃止となりましたが、人々の要望により遊園地「さやま遊園」として復活します。これらは多くの人がにぎわう娯楽の場として、地元の復興を支えました。
狭山ニュータウン開発、高度成長期に突入
1967(昭和42)年から狭山ニュータウンの開発がはじまりました。それまで1万人余りだった人口は急激に増加し、農村集落から都市近郊のベッドタウンへと大きく姿を変えました。都市化にともない、池の数も減少しましたが、今でも市内には多くのため池が存在し、豊かな自然が残っています。
市制施行、大阪狭山市が誕生
1985(昭和60)年に初めて人口が5万人を突破。1987(昭和62)年10月1日、全国で654番目、大阪府内で32番目の市制施行により「大阪狭山市」が誕生しました。「狭山市」という名称は埼玉県狭山市と同名になるため、一般公募の結果も考慮し、数ある候補の中から名称が決定しました。
平成
狭山池のダム工事、平成の改修
狭山池下流域の洪水対策を主な目的に、大規模な改修工事が1988(昭和63)年に着工します。平成の改修と呼ぶこの工事は14年の歳月をかけて、2002(平成14)年に完了し、それまで主に灌漑用のため池として利用されていた狭山池は、洪水調整機能を持つ治水ダムに生まれ変わりました。
世界でも珍しい土木の専門博物館が開館
2001(平成13)年に開館した、世界でも珍しい土木技術史・土地開発史の専門博物館です。建築家の安藤忠雄氏の設計で、流れ落ちる水の音や水しぶきを感じることのできる水庭など、水をイメージしたユニークな建物です。現地から切り取った狭山池の堤や平成の改修で出土した重要文化財などを展示公開しています。
狭山池築造1400年記念事業開催
狭山池が2016(平成28)年に築造1400年を迎えることを記念し、狭山池築造1400年記念事業実行委員会が組織され、1年を通して式典や市民が参加できる記念事業が開催されました。1400年間にわたり受け継がれてきた狭山池の恩恵や価値を再認識し、今後の地域経済の発展と環境保全へとつなげる第一歩になりました。
更新日:2023年12月27日